スマイリー広隆寺 (前編)

みなさんこんにちは。
今回は平安京の西、「白虎」の方角にある、太秦(うずまさ)の
広隆寺を訪れました。2回に分けてご紹介します。

広隆寺は、幾千もの人々の祈りを集め、希望と慈悲の念を授かる
寺院だったことがわかりました。
「白虎」には、人々の願いの道が通っていました。

風水の四神相応の思想によると、「白虎」の条件とは、大きな道があって交通の便が良いことだそうだ。
実際、平安京から西へは山陰道が走っていて、都の文化・人・物が西日本の各地へともたらされたのである。

すっかり春になった京都市右京区太秦(うずまさ)へやってきた。嵐山からも程なく近い。
太秦といえば、朝鮮半島から渡来し日本へ帰化した豪族、秦(はた)氏の一大勢力拠点である。秦氏は5世紀頃、現在の京都市西部の桂川流域と南部の鴨川流域に移住したとされる。

彼らのすごいところは、高度な技術者集団だったことだ。土木技術・養蚕・機織・酒造・農業など大陸と朝鮮半島の先進技術を京都へもたらし、産業の発展に大きく貢献したのだ。
「うずまさ」の語源は諸説あるが、一説には秦氏が献上品を朝廷へ持って行くときは、うずたかく絹織物を積んだので、「うずまさ」といわれる。また、機織(はたおり)の“ハタ”は、秦氏からきているとも伝わる。

秦氏は高度な技術と膨大な財力によって、賀茂氏とともに平安京の造営に影響を及ぼしたことが知られている。

広隆寺の南大門(仁王門)

広隆寺の南大門(仁王門)である。
両脇には阿形像と吽形像が待ち構えていた。

阿形像と吽形像

広隆寺は、推古天皇11年(603年)に建立された、都で最古の寺だ。秦氏の氏寺である。古くは蜂岡寺といい、秦寺、秦公寺、葛野寺、太秦寺などとも呼ばれていた。建立したのは秦河勝(はたのかわかつ)なのだが、なぜか聖徳太子が建立した日本七大寺のひとつとして数えられる。

広隆寺の建立される経緯について、『日本書記』にこう書いてある。
《推古天皇11年の11月、「わたしは尊い仏像を賜った。だれかこの像を祀ってくれないか」と厩戸王(聖徳太子)は官僚を前におっしゃった。そのとき、秦河勝が「私に祀らせて下さい」と進んでこたえたので、彼はその仏像を授かった。そして蜂岡寺を造り仏像を祀った》とある。

「蜂岡寺」とはもちろん広隆寺のこと。そして「尊い仏像」こそ、広隆寺が所蔵する国宝、「弥勒菩薩半跏思惟像」(みろくぼさつはんかしゆいぞう)のことである。

歴史の教科書の、最初の方のページに必ず出てくる、あの“アルカイックスマイル”といえば、おわかりいただけるだろうか。
『日本書紀』の記述そのままに、寺も仏像も現存しているのだ。
(ただし寺は2回再建されているけどね)

次回、「スマイリー広隆寺 後編」へつづく。

広隆寺

写真と文 / 高橋友和

■広隆寺・・・
京福電鉄(嵐電)太秦駅下車 徒歩1分。



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